昭和48年10月01日 月次祭



 いよいよ十月の月に入りました。お道の信奉者としましては、一番実は有り難いの、有り難くないのと、言う事はないですけれども、昔から十月は、おかげ月と言われております。第一、御本部のご大祭、今年は特別の記念のご大祭、引き続きまして地方では、各教会教会のご大祭が、次々と開かれるわけです。ここでも、いわゆるご大祭月でございます。ですからご大祭、御本部にお参りをした、またご大祭をお参りさせて頂いた、というだけではなくて。
 そういう有り難い、お礼のお祭をさせて頂くのでございますから、私共のお礼心というもの、いわゆる有り難いという心が、一番高められておかなければならないと言う事なのです。私は今朝、朝の御祈念に、今月の信心の、まあ一つの焦点と言った様なものを、心に感じさせて頂いておりましたら、御心眼にまだ固いつぼみ、一番下がちょっと咲きかけておろうかと言う様な、あれはグラジオラスですかね、の花を頂きました。
 いわゆるこれが咲いたら、もう次が咲く準備ができた、次にそして一番頂上までこうずっと咲いていくという、一番上まで咲いていくという、これが私共の生涯でありたいのですけれども、日々の上におきましても、やはりそうであります。いよいよ有り難いという心を頂かせて頂く。信心をしておれば、一年一年有り難うなってくると、仰せられるのですけれども、私共の信心は一年一年有り難うなっていないと言う事。
 どこに有難くなっていけない元があるのか、又はどういう生き方になれば有難くなれるのか。まあ時々は心に感動的に有り難いというものを感じるけれども、それはすぐに消えてしまうと言った様な体験を皆さんお持ちであろうと思う。今朝からの御理解に、「痛いのが治ったのが有り難いのではない、いつもまめなのが有難いのぞ」という御理解に基づいての御教えでございました。成程まあ病人でいうなら医者の見離したようなのが、例えば今日当りはもうそういうお礼のずうっと続きでした、午後から。
 まあ一、二例を申しますと、萩の山口さんが御礼に出て見えて、丁度一年ぶり、ご主人が毎月月参りをしてみえられた。大体は萩の教会にお参りをして、まあいろんなお願い事はここにいつも参ってくると言う様な事でしたけれども、丁度一年前にお参りをさせて頂いた時に、リューマチが悪いのでそのお届けをさせて頂いたら、とにかく教えを頂きなさい、そして教えを行ずると言う事をまあ言われた。ところがこの方はお参りをしてくるけれども教えを頂かない。
 そしてその時に、私は忘れておりましたら、天にまかせよ地にすがれよというお書き下げを頂いておったそうです。それから帰りまして、まあ何日かしてからでしょう、リューマチのために電気治療に行った。まあ全身色々した。所がそれが元で腰が立たんようになった。それから親戚にお医者さんが何軒もありますから転々とお医者さんをまわらせてもろうて、結局はまた専門のお医者に入院をさせて頂いて、一年間。
 もうこれは私には言われませんでしたけれども、今度はもうこの人の病気は難しいと言われるほどしであった。けれども信心させて頂いておると有難いと思いますというのはね、医者が見離しておるというような事がうすうす感じられる、寝ておってからも。まあ子供たちが、七人の子供がおるが、七人の子供達が移り変りやってきてくれる。その雰囲気から、はあ今度は自分は難しいなあというほどしに感じた。
 けれども、信心をさせて頂いておるのだから、神様のおかげで助かるだろうという心強い、ものを感じておりました。朝六時半から一時間ばっかりの時間が、軽く散歩をしなければならない。もう非常に景色の世か所であったそうですが、もうその時にです、もういつも心の中に感じ続けさせて頂いた事は、親先生が最後のお参りの時に、天にまかせよ地にすがれよという事を仰ったが、本当に自分は長年信心をさせて頂いて。
 丁度昭和三十二年にもう手形が落てずに、もうこげな事なら商売はもう潰れてしまうという時に、たまたま高芝さんの奥さんが、商いにみえて、ぜひその当時の椛目にお参りをせろというて、お参りのおかげを頂かせてもろうて、今日までにもう頂いておるおかげはもうとにかく、椛目にお参りをしだして、合楽にお参りをしださせて頂いて」、もう商売の上にもですけれども、その七人の子供達の一人ひとりのおかげの頂き方、現れ方というものをです、じっと一年間の上に思いを馳せさせて頂いた。
 朝の六時半から一時間ばかりの散歩の間に東の方を向いて、合楽の方を向いては、合楽の親先生に祈りすがらせていただいた。まあおかげを頂いて医者もたまがるような、大体退院できんはずのが退院できたというてお医者さんも喜んでくださったと言う事でございますですね。今日はそういう一生懸命のお礼の参拝やら、佐田さんのところの遠いご親戚にあたります方ですけれども。
 あれは何とか言った、久留米の床屋さん、滝本さんが今日はは久しぶりに御礼に出てみえてから、もうそれはそれは、内容が内容ですからお話できませんけれどもね。もうとにかく、ここ半年ばかりに悩み、心配苦労しておった一つ一つの問題が次々と解決させて頂いて、いくら信心のない主人でも、やはりおかげとまでは言わんばってん、まあ私が言うたらほんなこつと言うじゃろうと思うようにおかげを頂いた。
 最後の息子さんの問題なんかはもうそれこそ大変な事でございましたけれども、親先生にお電話でお届けをすると、心配はいらん、どうだああだとこう御教えを頂く度に、まあ安心させていただきながらもすがらせていただいておりましたら、おかげを頂いてもうそれこそ、もうそれこそバンザイしよう事おかげを頂いたというて今日言っております。ですからそういう特別のおかげを頂きますとです、やっぱり有難いのです。
 けれどもそう言う事が、難儀な問題が解決したとか、治らんはずの病気が治ったというのが有り難いのではない、いつもまめなのが有り難いのだというところが分からんとです、今月の信心の合楽のテーマであるところの、有り難く次から次と喜びの花を心に咲かせていこうと言う事にはならないのだ。昨日は、私共の孫の聡子が、蔵の二階から一番上から下まで落ちた。
 もうそれこそ、けれどもまあ本当に神様がね、こう受けておって下さったと言わにゃおられないほどしにです、それこそ、まあコロコロとこう転がり落ちたような感じで、かすり傷一つせずに一番下でこうやって、こう四つ這いになってから、アーンちゅうてから、ギャーといっても泣かんのです。打ってないからですよあれ。落ちた時にどこかガツッと打ったとか、そんならそん時に悲鳴をあげなきゃならんでしょう。
 ところがコロコロと落ちとるもんですから、自分はもう無我夢中でしょうけれども、一番下までゆっくり落ちてからね、下でこうやってうつ伏せになっておる。それでさあどうかしとらんかというてこう、かすり傷もしとらんし、どっか骨が折れておると言う様な事もないでまあおかげを頂きました。そういうね特別の働きとでも申しましょうか、を頂きますと今日は広大なおかげを頂きました、大難を小難無難でおかげを頂きましたというて喜ぶけれども、それではいけないその喜びだけではいけないというのです。
 それは有難いのではない、いつもまめな、いつもこう抱え続けられておる、いつも懐に抱きかかえられておるという事こそが有難いんだと分かった時に、いつも有難いと言う事になるんじゃないでしょうか。今日はそんな御理解を今朝説かせて頂きましたら、久留米の佐田さんがお届けをなさっておられます。今日の御理解を頂いてあらためて先生思いますと。日田におります時に一番下の恵介君がですね、川に落ちかかってからこうやってぶらさっがっておる時に助けていただいた。
 二階からゴロゴロ、布団が干してある、その布団の上で遊びよるけん布団なずーっと落ちていきよるちゅうわけです。もうそこの間一髪という時におかげを頂いたり、小学校の一年の時にも久留米に帰って、護国神社の、鳥居、あの何がありますね、太鼓橋が、太鼓橋の上から三間ぐらいあるだろう、それがその水が枯れてしまって下は石ばっかりの上に落ちてかすり傷もしとらなかったと言う様なです、おかげの事を思い出させて頂いて、本当に広大なおかげを頂き続けてきたが。
 ういう例えばです、激しいまでの神様のご守護の中に一切があったんだと言う事を気づかせて頂いたと言う事を言っております。皆さん、今日もどうも平穏無事であった、何でもない、有難い心も分からないのだけれども。丁度今日は桜井先生の誕生日というお届けがありましたけれども、先生今日は第一回目の誕生日でございますというて御礼のお届けがありました。第二回の誕生日があるというわけなんです。
 それはああいう高層建築の上でのお仕事をなさるのですから、もう何年になりましょうかね、四、五年になりましょうか、上から一番下まで、地下室のところまで落ちていった。ところがもうそれが、こう、何かトタンがあるところにいっぺん当たったり、何かがある上にフワンと落ちていった。それこそかすり傷一つしなかった。だから、それを第二の誕生日だとさせて頂いて、毎年御礼のお届けをなさいます。
 だから本当に神様がね、表現のしようがないからですけれども、神様が受けておって下さったんだというです、より言い様がないのです、表現が。神様に受けて頂いておってたんだという表現、そんならばです、そういう時に、九死に例えば一生を得たと言う様なです、おかげを頂いた時には、それこそ広大なおかげであるけれども、教祖様はそういうおかげがおかげではない、いつもまめなのが有難い、いつも抱きかかえられておるという、受けられるのじゃない、いつも懐の中に抱えられておると言う事。
 いつも懐の中でお乳を十分頂いておると言う事。いつもまめなのがいつも、いうならば平穏である事、無事である事、何もなかったという時が一番有難い事だと言う事が実感として感じられる。今日の佐田さんじゃないけれども、今日の御理解を頂きよって、本当にうちでも佐田恵介の場合あんな、もうそれだけの事じゃありませんがね、もう自動車にしかる間一髪といった時、様々なおかげを頂いてきてる。けれどもそういう強力なです、激しいまでの働きが、なら常日頃の中にもあっておると言う事。
 そこを思わせて頂く時にです、そういう働きの中にそういうまあいうならば、金光大神御取次の働きの中に、それをここでは親先生の祈りの圏内の中にある事実をね、私共がそういう何かの時に広大なおかげを頂いたと言う様な時に、そういう働きがいつもあっているんだと言う事を分からせて頂くと言う事だと思うのです。例えて言うならば、なら昨日の聡子が落ちました。それで頭を割りました。腕を折しょりましたというてもです、やはり神様のご守護の中にあったんだと言う事なんです、もっと厳密に言うと。
 いや、それが落ちて即死であったというても神様のお懐の中で起きた事、圏内いわゆる金光大神祈りの圏内の中に起きておる事の事実を分からせてもらう時に、その事に対してもお礼が言えれるという心の状態を、いつもまめなのが有難いのだと言う事なのです。ですからそういう心の状態を頂かせて頂くために、いよいよ本心の玉を磨かせてもらおう、日々の改まりを大事にさせて頂く。そしてただ今申しましたような事柄を分からせて頂いてです、本当に一日を締めくくらせて頂いた時にです。
 はあ今日もおかげで平穏無事でおかげを頂きましたと心からお礼を言う日もあろう。まあ今日という日はまあ何と様々な事のあった日であろうか、本当に腹の立つ日であった、イライラする日であったけれども、一日を締めくくってご神前に額づかせて頂いたら、あれもおかげであったこれもおかげであったとお礼を申し上げる一日の締めくくりでありたいと思うのです。
 昨日は三十日の月末の御礼信話会でございましたが、月々の例えば月末にみんなが頂いたおかげの御礼をです、一口ずつでもお話させて頂こうという、御広前で毎月開かれております。でまあ申しました事ですけれども、例えば一月を締めくくらせて頂いて、ただ今申します、おかげで今月は平穏無事の有難い月であったと言う事もあろう、今月という今月はもう大変な月であった。
 けれども、思うてみれば思うてみるほどに、おかげの中にあった事実を、分からせて頂けば頂くほどに、有難い事であったと御礼が申し上げれる人達が、例えばせめてこのお月次祭にお参りするぐらいな人達がです、三十日の月末の御礼信話会に、御礼の心を持ち寄って集まれるようになった時が、私は合楽教会がいよいよ、発展のおかげを頂いていく時ではなかろうかと、言うて話した事でした。
 それが金光様の信心させて頂く者の願いでなからなければ、私共はおかげを受けておってもおかげを実感しきらないところから有難いものが生まれてこない。そういう特別なおかげを頂きますと、広大なおかげを頂いたというけれども、それよりももっともっとおかげを頂いておるところの平穏無事の時、いつもまめなのが有難いと言う事が分からせていただく時に、心の中にいつも有難いものがいっぱいです。
 というのがもう、いつも涙が流れて有難い有難いというのじゃない、そういう実感が心の中にいっぱいにある。五体にみなぎっておる。だからちょっと触れたら有難いものがフッとこう湧いてくる事になるのです。ちょっともうそれこそ、私が今朝から申しましたけれども、テレビを見ておっても新聞を読んでおってもです、例えば悲しい記事が載っておるとか、悲しい場面を見るとか、して悲しいのなんかむしろ起こらない。
 ほんに信心があったらあげん時はかえって御礼ば申し上げるとじゃろうばってんちゅうごたる風な思いがする。けれども何でもないと。今日も私はお芝居の本をちょっと開かせていただいた。丁度あの竹之丞という、元鶴之助ですね、竹之丞が襲名披露を大阪でやった時に、非常に人気が大阪ではなかったという。けれどもその人ファンの人がです、三代富十郎、四代富十郎を襲名したんです。三代富十郎がおられたら、それこそ何か娘道成寺か何かをやった舞台の姿が、先代にもうそっくりであった。
 だから思わず知らずお父さんにそっくりというておらんだちゅう。そこば見よったらもう何か知らんけれども感動するんです。お父さんにそっくりというて声をかけたと。そしたらもうとめどがないほどに心が熱うなってくるというようにですね、もうちょっと触れられるとそこから有難いものが、いつもこれがいっぱいなのだから。だからいつもずっと感激し続けておるという事じゃない。
 いつもまめなのが有難いのだという実感がです、いつも心の中にいっぱいであるというようなおかげを頂きたい。今月はそういう月なのですから、そういう信心をお互い目指させていただいて、それこそグラジオラスじゃないけれども、次から次と喜びの花が咲くようなおかげを頂かせていただきたいと思うのでございます。時間がございませんからこれでご無礼いたしますけれども。
 いよいよ御本部参拝の話があってましたけれどもたくさんの事ですから。またここからも信心の全然ない、例えば信心させて頂いておる方のご親戚と言った様な方達もお参りになります。だからお互いがです、信心の喜びの中に団体行動ができませんとです、もうお参りしたために汚して帰った、心がね、汚して帰ったと言った様な事があってはいよいよ相済まん事ですから、お互いが有難い有難いの一念をね、燃やさせて頂いてのこの十月いっぱいでありたいと思うのでございます。
   どうぞ。